蜜の海に沈めば

大きい、大きすぎる独り言

蜜の海に沈んだ日

2017年9月、私はいくつか大きなモノを失った。

失うきっかけが発生したその瞬間を「失った」と捉えるなら、

それは8月だったかもしれないし、7月だったかもしれないし、

はたまたそのモノ自体を得ることになった4年前かもしれない。

 

失うことは半ば必然だったであろうと個人的には考えていて、

誰から見てもそうだったはずだ。

それを防ぐ術は、少なくとも1つ以上はあったのかもしれないけれど、

気づいたときには既に取り返しがつかず、

悔やんでも悔やみきれない。

かといってそこまで悔しいかと問われると、現時点ではハテナである。

 

持ち続けることで、かえって辛く感じてしまうものが世の中にはあるのだと知った。

むしろ殆どのものがそれに当てはまるのかもしれない。

人によっては家族やお金さえも、その対象かもしれない。

失ってしまったのは必然だったと諦めたものの

もちろん失わないに越したことはない。

出来れば失わずにいたかったが、

世の中が、世界がそれを許さなかった。

 

運命という言葉はとても便利で、消極的で、残酷だ。

「運命だ」と言われてしまえば、人は納得するしかない。

私は割りと諦め上手なので、

それが運命だと自分に言い聞かせさえできれば

だいたい何に対しても諦めがつく。

 

私は過去を振り返るのが苦手で、

記憶することも得意ではない。

どうでもいいことばかりいつまでも覚えていて、

大事なことはすぐに忘れてしまう。

だから、時には「過去は振り返ってはいけない」と

人に説教を垂らし込めるときもある。

「前が見えなくなるから」と。

はじめは自分を正当化するために言っていたはずなのに

いつしか本当にそう思えてきて、

そのおかげか、たくさんの過去の思い出の物を捨てることができた。

 

思い出だらけの部屋で、私は辟易としていた。

小学校のクラス内新聞だとか、

旅行先のホテルのアメニティとか、

レストランでもらったおもちゃとか、

過去を思い出せるものはなんでも取ってあった。

今が辛いからだ。

今生きていることが辛いから、過去にすがるしかない。

楽しかった頃を思い出して、それを養分にする。

実はそれは逆効果で、養分を吸い尽くした後に

現実とのギャップを思い知らされ、余計に生きづらくなったりする。

 

私たちは今を生きているから、過去を振り返る必要はないと

最近やっとその結論に至ることができたけれど、

やはり多くの人には過去が必要なのではないかと思う。

ただ私には必要ないだけで。

 

こうして私は蜜の海に沈んだ。

失いたくなかったモノや、たくさんの思い出を生贄に捧げることで、

私は蜜の海に沈んだ。